多いことと、広いことは違う
進学のときの話を、たまに思い出す。
都会で育った人と、そうでない場所で育った人とでは、選び方がずいぶん違う。
都会は、選択肢が多い。
近くにいくつも高校がある。どれを受けるか、どのくらいの難易度にするか、通学時間はどうか。比べる材料には事欠かない。
そうでない場所は、選択肢が広い。
数が少ないので、細かく比べようがない。代わりに、そもそもどういう方面に進むのか、という話になる。進学するのか、しないのか。手に職をつけるのか。家の仕事を継ぐのか。
数の話をすれば、前者のほうが恵まれている。
だが、同じことを選んでいるわけではない。
A1かA2か、と、AかBか
言い方を変えると、こうなる。
選択肢が多い場所では、A1にするか、A2にするか、A3にするかを考えている。
選択肢が少ない場所では、AにするかBにするかを考えることになる。
前者は同じ枠の中での比較で、後者は枠そのものの選択だ。
そして厄介なのは、A1からA4まで並んでいると、Bの存在に気づきにくいということだ。目の前に比べるものが十分にあるので、比べているだけで手一杯になる。
階層の外に出る理由が、生まれない。
情報がパンクしている
これは、都会に何かが欠けているという話ではない。むしろ逆だ。
たとえば東京には、会社勤めでない人も大勢いる。自分で商売をしている人も、一人でやっている人も、たくさんいる。数でいえば、地方よりずっと多いはずだ。
それなのに、その情報が入ってこない。
理由はたぶん、量の問題だ。目に入る情報が多すぎて、自分がいる階層の中だけで飽和してしまう。学校の話をしているときは学校の話しか入ってこないし、就職の話をしているときは就職の話しか入ってこない。
隣の階層に、まったく別の生き方をしている人がいても、視界に入らない。
目の前にある、比べやすい選択肢に溺れる。
選択肢が少ない場所では、そうはならない。比べるものがないので、否応なく別の方面を考えることになる。そして考えてみると、意外と道はある。小さく商売を始める人も、家の仕事を継ぐ人も、実際にいる。
数は少ないのに、枠を跨ぐ人の割合は、そちらのほうが高い気がする。
逃げ場があると、問いが立たない
なぜそうなるのかを考えると、ひとつ思い当たることがある。
代替案が豊富だと、根本的な問いが先送りされる。
いまの場所が合わないとする。選択肢が多ければ、隣に移ればいい。A1が合わなければA2がある。A2も合わなければA3がある。
移れるあいだは、そもそもAでいいのか、という問いが立たない。
移れないと、そこで初めて考えることになる。この方面そのものが自分に合っていないのではないか、と。
つまり、逃げ場の多さが、内省の機会を奪っている。
これはたぶん、能力の話ではない。環境の話だ。次の手があるうちは、誰も枠を疑わない。
道具の話と、同じ形をしている
別のところで、道具について同じような話を書いた。
新しく出てきた便利な道具を、同じように渡しても、使える人と使えない人に分かれる。差がついたのは、疑問を持っているかどうかだった。手がかりがない人は、いくら選べても広げられない。
選択肢の話も、たぶん同じ構造だ。
数が増えても、判断する軸を持っていなければ、増えた分だけ迷うことになる。むしろ、比べる作業に時間を取られて、比べるべきかどうかを考える時間がなくなる。
違うのは、向きだけだと思う。道具の話は外に向かう話で、こちらは内に向かう話だ。
自分は何をしたいのか。
その問いは、選択肢が多いほど立てにくくなる。目の前の比較が、その手前の問いを覆い隠してしまうからだ。
自分も、同じことをしている気がする
ここまで書いておいて、他人事にはできない。
私はいま、次にどこへ行くかを考えている。前の会社が合わなくて移り、いまの会社も合わないので、また移ろうとしている。
これは、A1からA2へ行き、A2からA3へ行こうとしているのではないか。
会社に勤めるという枠そのものは、一度も疑っていない。合う会社を探しているのであって、合う生き方を探しているわけではない。
選択肢は、たしかに増えた。転職の情報も、募集の数も、昔よりずっと多い。
ただ、増えたぶん、惑わされているという感覚もある。
比べる材料が多いので、比べてしまう。比べているあいだは、考えているような気になる。だが、実際には枠の中を動いているだけかもしれない。
多いことと、広いことは違う。
たぶん本当に必要なのは、A3を探すことではなく、Bがあるかどうかを一度考えてみることだ。
考えた結果、やはりAが良いという結論になるなら、それでいい。問題は、考えないまま次のAへ移ってしまうことのほうだ。
そして、選択肢が多いと、それがとても簡単に起きる。