持ち運べるのは、頭の中身だけだった
転職すると、関係がリセットされる。
当たり前の話に聞こえるが、実際に一度経験してみると、思っていたより重い。
持ち運べたのは、自分の頭に入っているものだけだった。覚えた技術、身についた勘、読めるようになった図面。それは確かに残る。誰にも取られない。
残らなかったのは、人のほうだ。
一緒に仕事をした人。困ったときに聞ける人。あの分野ならあの人、と分かっていた地図。全部、置いてきた。一部は今も連絡を取っているが、多くは自然に切れた。
伸ばしていたのは、関係のほうだった
問題は、失ったのが「連絡先」ではないことだ。
私が一番速く成長した時期を思い出すと、必ず誰かがいる。
自分の専門ではない領域に放り込まれたとき、社内の詳しい人を紹介してもらった。その人が、知識も、進め方も、話を通す相手も、全部くれた。私はそこから、その分野で仕事ができるようになった。
あのとき伸びたのは、私の能力ということになっている。だが実際に伸ばしていたのは、あの関係だった。関係がなければ、あの一年で身につけたものは、たぶん三年かけても身につかなかった。
能力は関係の中で伸びる。一人で本を読んで伸びる部分もあるが、伸び方の桁が違う。
だから転職でリセットされるのは、資産ではない。伸びる速度だ。
新しい会社に入って、ゼロから信用を積み直す。誰が何に詳しいのかを知るのに、一年かかる。頼めるようになるのに、もう一年。その二年間、頭の中身は増えるが、伸び方は明らかに落ちる。
会社の名刺で得たもの
もう少し正確に言うと、失われるものと残るものには分かれ道がある。
会社の名刺で得た関係は、消える。
相手は私と話していたのではなく、私の後ろにある看板と話していた。看板がなくなれば、話す理由もなくなる。冷たいわけではなく、そういう構造なのだと思う。
自分の名前で得た関係は、残る。
数は少ない。だが実際に残っている。技術の話で意気投合した人、こちらが何かを返せた人。会社が変わっても、関係の根拠が変わらないからだ。
そして厄介なのは、会社にいる限り、前者ばかりが増えることだ。仕事で会う人は、当然、仕事の関係で会っている。名刺を交換して、案件が終われば終わる。
いま関わっている現地の人とも、たまに一緒に食事をする。ただ正直に言えば、これも仕事の関係だ。プロジェクトが終わったらどうなるかは、まだ分からない。
外に出さない会社の中で
もうひとつ、構造の問題がある。
いま所属している会社は、外との接点があまりない。持たないというより、構造的に持てない。出張は工数として削られ、社外の活動は業務外とされ、学会や業界団体に出る文化も薄い。
その環境で何が起きるかというと、社員の会社依存度だけが上がる。
外に知り合いがいない。外で名前を知られていない。外の相場も分からない。だから、辞めにくくなる。
これは誰かが意図してやっていることではないと思う。だが結果として、そうなっている。外部との接点を削ることは、コスト削減であると同時に、囲い込みでもある。
会社を出て明確にうまくいった人で、私が知っている数少ない例は、学会に所属していた人だった。会社の外に、会社と関係のない足場を持っていた人だ。
四十代に問われること
なぜこれを気にしているかというと、この先のことを考えるからだ。
三十代の後半までは、たぶん「何ができるか」で通用する。手が動く、技術が分かる、現場が回せる。それは頭の中身なので、持ち運べる。
四十代以降に問われるのは、そこではないと思っている。
潜在的に、何を供給できるか。そして、それをどう立証するか。
思いつく形は、三つくらいしかない。人を動かしながら自分も手を動かせること。何かを立ち上げた実績があること。そして、会社に依存していないコミュニティに、すでに属していること。
三つ目は、会社員にとって一番作りにくい。役職で得られるネットワークは、その役職に付いているものであって、自分には付いていない。転職した瞬間に返却することになる。
いま、答えは出ていない
ここまで書いておいて、答えは持っていない。
会社の中にいる限り、自分の名前で得られる関係は限られる。かといって、会社を出れば得られるという話でもない。会社を変えても、たぶん同じことが起きる。
ひとつだけ思うのは、媒介を自分にするしかない、ということだ。
関係が他人の受け取り方に左右されるのは避けられない。相手が応じるかどうかは、こちらには決められない。だが、誰を経由してつながるかは選べる。会社を経由すれば会社が消えたときに消える。自分を経由すれば、少なくとも消える理由が減る。
自分の名前で出せるものを、会社の外に置いておく。技術のことでも、考えたことでもいい。
これを書いているのも、たぶんその一環だ。効くかどうかは、まだ分からない。
ただ、一度リセットを経験してから、頭の中身だけを持って移動するのは、もう嫌だと思うようになった。