スキルは持ち出せた
辞めようと思ったのは、相手先と計画を立てている最中だった。
社外の企業と組んで、これから何をどう進めるかを詰めていた。こちらから声をかけて、乗ってもらった話だ。向こうも人を出し、時間を使ってくれていた。
その途中で、会社の戦略が変わった。
高い付加価値のものを少量作る、という方向への投資が絞られていった。量を追う方へ寄せる、という判断だ。決めたのは私ではないし、私の上司でもない。もっと上のどこかで決まった。
困ったのは、相手先に説明できないことだった。
一緒にやりましょう、と言ったのは私だ。その前提が消えたことを、どういう顔で伝えればいいのか分からなかった。技術的に無理でした、なら言える。事情が変わりました、というのは、言えるが、言いたくなかった。
合わせる顔がなかった。
あのとき初めて、自分が背負っていた信用が誰のものだったのかを考えた。相手が乗ってくれたのは、私を信じたからだけではない。会社という枠があったからだ。その枠の中身が変わると、私の言葉も一緒に無効になる。
自分が決めていないことで、自分の約束が崩れた。
入口まで固定されていた
もう少し前から、おかしいとは思っていた。
新しいものを社内で通すのが難しいのは、どこでもある話だ。既存事業の物差しで測られるので、小さいものは通らない。それは分かっていた。
だが、そのころには出口だけでなく、入口まで固定されていた。
何かの種を持ち込もうとすると、その時点で形を変えられる。誰が見ても分かりやすいように、反対が出ないように、万人に受けがいいように。角が落とされ、尖ったところが均される。
そうやって整えられたものは、通りやすい。だが通ったときには、もう別のものになっている。
そして厄介なのは、入ってくる時点で削られているので、後から戻せないことだ。出口で否決されるなら、まだ戦える。入口で丸められると、何を主張していたのかが本人にも分からなくなる。
軌道修正は、もう無理だと思った。
逃げたわけではなかった
そう書くと、嫌になって辞めたように読めるかもしれない。実際には、少し違う。
私はその前に、立ち上げで大きく失敗していた。うまくいかなかった理由が、自分でもよく分かっていなかった。何が足りなかったのか。どの見通しが甘かったのか。技術の問題なのか、それ以外なのか。
知りたかった。
移った先は、大きな投資案件がいくつも同時に動いている会社だった。人手を欲しがっていた。そこへ行けば、うまくいく立ち上げというものを見られる。自分に欠けているピースが何なのかが分かる。
年収は一割ほど下がった。それでも行くだけの理由が、こちらにはあった。
つまり、逃げではなく探しに行ったのだと思う。少なくとも当時の自分は、そのつもりだった。
持ち出せると思っていたもの
辞めるとき、自分が何を持って出られるかは考えた。
スキルだ、と思っていた。
技術の知識、扱える手法、現場の勘。それは自分の中にあるものだから、会社を出ても消えない。実際、消えなかった。ここは間違っていなかった。
間違っていたのは、それで十分だと思っていたことだ。
人との関わりが仕事の成長を作っている、ということを、私は分かっていなかった。
正確に言うと、言葉としては知っていた。人脈は大事だ、というような話は何度も聞いている。だが、それが自分の中で何にも接地していなかった。記号としては持っているのに、指しているものを知らない。そういう状態だった。
移ってから、痛いほど分かった。
新しい場所で、疑問を持つ。調べたい。だが、誰に聞けばいいのかが分からない。聞いても、答えが返ってくるとは限らない。信用がないので、情報も来ない。
スキルは、発揮する先がなければ働かない。
手は動く。知識もある。それでも、何をどう当てればいいのかが分からない。持ち込んだ道具が、どれも空を切る。
接続して、初めて生きる
いま思うのは、こういうことだ。
人間の能力というのは、単体で存在するものではないらしい。誰かと繋がって、その繋がりを通して、初めて何かに作用する。
繋がりがないところに能力だけ置いても、動かない。
だから転職で失われるのは、人脈という名の連絡先ではない。能力が働くための接続そのものだ。そして接続を積み直すのには、想像していたより時間がかかる。
これを、移る前に理解しておくことは、たぶんできなかった。誰かに言われていたとしても、たぶん分からなかった。
失ってみないと、何を持っていたのかが分からない種類のものだったのだと思う。
選択そのものは、間違っていなかった
念のため書いておくと、移ったこと自体を後悔しているわけではない。
自分に足りなかったピースは、実際に埋まった。うまくいく立ち上げも、うまくいかない立ち上げも見た。何が律速になるのかも、だいぶ分かるようになった。目的は達している。
誤算だったのは、その先だ。移った先は、前の会社よりもさらに、新しいものを受け入れない土壌だった。そして、自分の持ち味が働く場所でもなかった。
ただ、それは行ってみなければ分からなかった。外から見て分かるようなら、誰も転職で失敗しない。
だから、いい経験をしたと思っている。
ひとつだけ、次に移るときに違うのは、持ち出すもののリストが変わったことだ。
スキルは、今度も持ち出せる。
接続は、たぶん持ち出せない。
だとすれば、会社の中だけで接続を作るのは、少し危ないのではないか。そう考えるようになったのは、このあとの話だ。